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今の京都の四条の西院から東山方面にかけてを、
昔は愛宕郡と言いました。奈良時代の末、今から約1250年前に、
聖武天皇の娘の称徳天皇がここに寺を建てます。
愛宕(おたぎ)の地に建てられたので愛宕寺と言いました。

 ところが平安時代の初めに、鴨川の洪水で全て流れて
廃寺となってしまいます。その復興を命じられたのが
天台宗の僧 千観 (918〜984) です。千観さんは、
いつも念仏を唱えていたので、民衆から念仏聖人とよばれ、
このことから寺名を愛宕念仏寺とよばれるようになりました。



 千観さんの両親は、何とか子供がほしいということで、毎日清水寺にお参りをしていました。
  そして母親が、観音さんから蓮華の花を頂く夢を見て子供が授かりました。

  両親は非常に喜んで、千手観音にあやかり、の二字をもらって千観丸と名付けます。
  早くから比叡山の僧侶となって苦行し、御所に出入りできる内供職(ないぐ)になりました。


     


  ある日、千観さんは御所から帰る途中で、四条河原の土手で、民衆に法話をしている
  空也上人と出会います。それを見た千観さんは、日ごろから悩んでいた 
 "自分はこれからどのように生きていくべきか" ということを上人に尋ねます。 

 すると空也上人は「何事も身を捨ててこそ」と、ただ一言を言われて去ってしまわれます。
  千観さんはそこで「はっ!」と悟って、その場で衣を脱いで供の者を寺に帰し、その足で裸一貫、
  修行のやり直しの旅へと出てしまったのです。


     


  ある年、雨がなかなか降らず干ばつが続きました。これを心配した天皇が千観に祈祷をして
  もらうようにと命を出し、箕面の龍神滝で修行中の千観さんは、早速その場でご祈祷を始め、
  そして見事に雨を降らせたということです。


     


 大衆の苦しむ姿を見ては、身を捨ててその救済にあたりました。川では船頭となり、山崩れ
  があったというと馬方をやり、旅の人を安全に送り届ける等、奉仕活動に身を尽くしました。

 また各地で神社やお寺を建てていきますが、最後は高槻の成合山の山頂に金龍寺という寺
  を建てて、そこで生涯を終えることとなります。


      

本堂(重要文化財)は鎌倉中期の再建によるもので、
大正11年に堂宇の保存のため、嵯峨の地へ移築されました。 
また、昭和56年、寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の
石像で充満させたいと発願し、10年後の平成3年に
千二百羅漢落慶法要」を厳修しました。

本尊は「厄除千手観音」。
平安時代より厄除けの寺として厚く信仰されてきました。

また、火之要慎のお札で知られる、
あたご本地仏「火除地蔵菩薩」がまつられています。